彼は誰そ

曖昧な季節には、それに合わせてなのかなんなのか、なんともはっきりしない事が起こるものである。

3月に入ったばかりの、曇り空が広がる午後の事だった。
たぶん休日だったのだろう、昼間から父親がテレビの前で横になり、だるそうにスポーツ新聞を読んでいた。
その日は、友人と外出の約束があった。
何故か、待ち合わせの時間も特に決められておらず、なんとなく14時ごろ家を出ようと立ち上がった。
「気をつけてけよ」
新聞に目を落とし、こちらを見ようともせず父親が言った。
今まで外出する時にそんな事をいう父親ではなかったのが何か気にかかったが「うん」とだけ返事をした。
玄関先に座り靴紐を結んでいると、いつの間にか祖母が後に立っていた。
「はっきりしない日だからこれ持っていきな」
手渡されたのは、幾重にも折り畳まれた和紙のようなものだった。
やっぱり「うん」とだけ言って、それをポケットに突っ込み外へと出た。

道すがら、今日は何をするんだっけ、とぼんやりと考えながら歩いていたら、忽然と、大きな鳥居が目の前に現れた。
神社であることは間違いないのだが、そこがどこだが、はっきりしない。
鳥居から先の景色も、モヤがかかったように朧げである。
こういう時は頭の中にも濃い霧がかかるものなのだろうか。自分の意思とは無関係に足が勝手に境内へと向かって行くのである。
鳥居の先がだんだんとハッキリしてきて、数人の男女が手を取り合って、優雅に踊っているのがみえた。
「ああ、今日はこれを見に来たんだっけ」
そう思った矢先、太ももあたりに強烈な痛みを感じた。
まるでそれは、鋭い刃物を一気に突き刺されたかのようであった。イテテと足を押さえてうずくまっていると、視線を感じて顔をあげた。
踊っていた男女が皆、無表情でこちらをみていた。
よく見ると、皆が皆、とても古い時代のボロボロの着物を着ていた。
足の痛みが更に増して、一気に身体が何かから解き放たれたように自由になった。
生気の無い視線から逃れるために、飛び跳ねるようにその場から走り出していた。

気が付くと玄関の前にいた。
家を出たのが14時過ぎなのに、夕焼けがあたりを照らしていた。足の痛みはすっかり無かった。
ポケットを探ると、ひどく濡れたあの和紙が出てきた。
広げると、濡れてぼやけてはいたが「信」と一文字だけ書かれているのが読めた。
家に入ると祖母が出迎えてくれた。
「黄昏時に見えるんは、あっちのもんかこっちのもんかわからんだろう?」
「うん、ありがとう」
そういうと祖母はあっはっはと大声で笑った。