BIG CAT BLUES

猫が好きだ。
特に三毛猫が好ましくある。

あの、毛だらけの癖に妙に妖艶な様子とか、猫背という言葉の意味を忘れさせてしまうような、貴婦人然とした立ち振る舞い。
あれが、好きだ。
たまに古い町中の土塀の上で毛づくろいをしている三毛猫の、チロチロとのびるピンクの舌をみてハッとしたりもする。
ハッとした自分が恥ずかしくなり、意味も無く猫に呼びかけてみたりもする。
更に、三毛猫は体毛の茶と黒の占める面積が多いほど良い、とも自分勝手に思っている。
白面積が大きいのはなんとなく日本風で、茶黒面積が大きいのは洋風なのだ。
日本風はこたつとのんびりしたひなたぼっこが似合うイメージがある。
洋風の三毛は、どちらかというとキザで、容易には人に懐かないし、エサもネコまんまよりもボローニャソーセージなんかをパクついているイメージなんである。
古い童謡の中に「ねーこはこたつで丸くなる」という歌詞があるが、洋風三毛がこたつで丸くなているところなぞ僕にはとうてい想像できないし、むしろ暖炉の前で仁王立ち(口にはボローニャ)していそうな、そんなお高い画のほうがしっくりくる。

実を言うと、そのような風貌の洋風三毛を子供の頃に実家で飼っていた事がある。
今言った様な、高貴なイメージを持っていたのだが、実際はこたつで丸くもなっていたし、ねこまんまもドシドシ食べていた。
それに、ボローニャではなくたまにゴキブリを咥えてきては、僕の枕元置いていくといったこともしてくれた。
子供心に「なめられている」と勘違いし、「修行だ!」とわけのわからないことを叫びつつ押入れの中に閉じ込めたこともあった。
それでもへこたれず、押入れのどこかからか抜け穴をみつけだし、洋風三毛は真面目な顔をして、僕の前に現れた。
そしてその後も、やっぱり僕の枕元にゴキブリや息絶え絶えなネズミを置いていった。
それらを置いていく洋風三毛の、凛とした表情は今でも忘れられない。
今思うと、それは狩のできないひよっこな僕に、こうやるんだ!とばかりにエサのとり方を教えてくれたいたのだろう。
それに気づくのはだいぶ後になってのことだったので、やっぱり僕はわけのわからないことを叫びつつ、面倒くさくなって放置していた(数々の戦利品はきっと祖母が片付けたのであろう)。
それから10年も経ったある日、洋風三毛は死んだ。
老衰だった。
バイトで留守にしていたため看取ることはできなかったが、母から、僕の布団の上で息を引き取ったことを聞いた。
僕は頭をたれて、お気に入りの毛布の上で目を閉じている洋風三毛に今までの事を詫びた。

その後、色々な思い出が重なって、洋風三毛はボローニャとか洋風とかいうイメージになってしまった。
それはただ単に、つまり僕がバカだからであろう。
それでも、僕の中ではやっぱり洋風猫には暖炉とボローニャなんである。

ではっ