わらばん紙フィクション

散歩していると、どこからか声がした。
辺りを見回しても、無口な赤ん坊をベビーカーにつんだやけに無口な主婦がいるばかりで、声の主ははっきりとしない。
「おーい」
足元から、今度はハッキリとそう聞こえた。
見ると空き缶がひとつ転がっているだけであって、空き缶、それも炭酸系のそれが自ずから喋るなんて奇異なことこの上ない。
「おーい、ここだ」
だが確かに声は空き缶から発せられているようである。
拾い上げるか否か思案していると「いいからちょっと頼む」空き缶がせかすようにいう。
恐ろしくもあったが、こちらの様子をチラチラと伺い始めた主婦の目線も気になったので拾い上げることにした。
すばやく拾い上げ、缶を耳につけるとなんだか懐かしい気持ちに包まれ、目を閉じた。
「ああ、良かったあんた、いい人だな」
缶"正しくは空き缶の中の声"から響く男の声は、周波数が微妙なラジオのように少しノイズがかっていた。
僕が全ての疑問をぶつける前に向こう側の声がそれを遮った。
「たぶん、あんたはこの声を空き缶越しに聞いているんだろう?そしてなぜ空き缶から声がするのかをいぶかしんでる」
その通りだった。
声は続く。近くに海でもあるのか、微かに穏やかな波の音とカモメの鳴き声が聞こえた。
「ちょっと空き缶を耳から離して、反対側をみてみてくれ」
言われたとおりにすると、紐のようなものが2cmくらいちょろりと出ていた。
「紐がちょっと出てるだろ?でも本当はその紐はもっと長かったんだ」
「けれど、」
そこまでいうと男は言葉を詰まらせた。
けれどそれで十分だった。
きっとこの紐の先は、男の愛する人へと繋がっていたんだろう。
それが誰なのかはわからないが、今もその人物は紐が切れているとは知らず、無言のままの空き缶を耳にあて、男の声がするのを待ちわびているに違いない。
波とカモメの鳴き声だけになった缶をカバンへしまうと、僕は海に向かって足を踏みだした。