桃源郷3

"肝試しといえば夏の夜中"と相場は決まっているものだ。

いくら小学生といえど昼の太陽サンサンと降り注ぐ下では墓石はただの石であるし、曰く付きの廃屋は朽ち果てた木材の塊でしかないのだ。まさに"幽霊見たり枯れ尾花"で風情も何も無い(と当時思っていたかどうかは知らないが)。

従って現世の(そして当時の我々のちっぽけな世界の)ルールに則るのであればもちろん出発は真夜中のはずである。
だが流石にすぐ裏といえど真夜中に両親の目、そして何よりこういう類の事に鋭い祖母の目を盗んで自宅を抜け出すのは至難の業であったから、なんとか我々の自尊心ギリギリの時間、すなわちテレビアニメの始まる20時前までに家に戻ろうと話が決まり解散した。
「あの便所、何かあるんかな?」
私の問いに兄は一瞬考えた後「さあな」と笑った。

夏休みも半ばを迎えた8月の日曜日、晩御飯もそこそこに「花火をしにいってくる」と見え透いた嘘を吐いて集合場所である神社へと足早に向かった。
たぶん両親は嘘を見抜いていたに違いない。「だからあの時止めるべきだった」と何度も言っていた。

2分も歩くと真っ暗な境内に着いた。目指す森とは正反対の場所に集合したのは拙い思考ながらも"親の目をくらます"という目的と、万が一、見つかった場合にこの場所であれば花火をしていた、という嘘が通るからであったと思う(実際、友人は花火を持参していた。もちろん件の便所に放つつもりであったろうが)。昼間でさえ人気の無い森の中で見つかることは絶対に無い、と言い切れた。
だが無意識のうちで"誰かに見つかってしまいたい"という気持ちも無かったではないだろう。その証拠に私を含む皆の顔が暗がりで硬く緊張していた。

結局、誰にも見つかることなく、元着た道を戻り蛇森へと辿りついた。
墨を流したような闇に映る木々が昼間よりも巨大化しているような錯覚。キーンという耳鳴りに混ざる、居所のわからない虫の羽音が耳に痛い。
同じ外なのにねっとりとした不快な熱さはここには無い。
あるのはひいやりとした黒い空間とわずかな音。そして確実に早くなる自分の鼓動だけであった。

誰もが身近な異界を前に足を踏み出すのを躊躇していた。
森は我々にわかりやすく"帰れ"と言っていたのだ。立ち入ってはいけない場所だと皆が悟った。
だが、目が慣れてくるにつれ浮き出してくる木々はまるで老婆の腕のように手招きしていた。大いなる矛盾だ。

額から流れた一筋の汗で我に返った。

「…行くぞ」

兄のかすれ声を遠くに聞きながら、我々は吸い込まれるように歩き出した。