マスタード・ジャズ・オペラ 1

その夜、貧乏楽団スチュワートスペシャルズの奏でるカンタータが流れる廊下で、ヤナーエフと田中氏が出会うことになるのは偶然ではなかった。
今思い返してみると、リノリウムの廊下に落ちる暖かいランプの光も、揚げトマト売りの屋台の親父ががなる騒がしげな口上も、あらかじめその夜のため、2人の出会いの為に作られた脚本の一部でしかなかったのではないか。
楽団のバイオリニストであるヤナーエフは、実に奇妙な風体の男で、その奇妙さを際立たせているのは、茶色のジャケットの片方の袖が不自然なシルエットを作る隻腕であることは間違いが無かった。
それにその夜は彼にとって最悪な一日の締めくくりであったのも間違いが無い。
コンサートマスターである太った男(これは仮の名前ではなく、彼は一様に皆から"太った男"とだけ呼ばれていた)から、もう用無しであると判断され、その旨を彼の片腕であるフルートのジェシカからはっきりと伝えられたのが開演の5分前であり、そのジェシカが、ヤナーエフに(嬉しそうに)ニュースを伝えるその口の端っこには鮮やかなイエロウのマスタードが少しばっかりくっついていた。
「明日からはその右腕にバイオリンじゃない他のものを持たないとね。例えばトンカチとか」
くだらないジョークを言うたびに、口角の黄色いシミが上下に動くのもヤナーエフをイラつかせた。
「あんたは明日っからフルートの代わりにホットドッグを吹くべきだな」
ヤナーエフの精一杯の皮肉を背に、ジェシカは太った身体を揺すりながら控え室へと引き返していった。
"片腕の男が、誰かの片腕にクビを言い渡されるなんてそれこそ陳腐な皮肉だ"
心の中で呟きながら無理に嘲笑を作ろうとしたがその試みはうまくいかなかった。
だからと言ってヤナーエフの演奏がまずいわけではなく、むしろその演奏法は素晴らしく奇妙でステキなものだと評判であった。
まず、アゴでバイオリンを固定する。
そして右手は弦を引く弓を持ち、とてつもなく柔軟な股関節を生かして、なんとあろうことか、足指でもってネックを押さえ
レッツ(ミュージックが)スタートする。
彼の5本の足指は華麗に指板を踊り、摩訶不思議な体勢からは想像も出来ない繊細で軽やかなメロディを観客へとお届けするのである。
ソリストとして一流、エンターテイメントとしても一流であったはずの彼が突然の解雇を宣告されるなど、本人以上に神さえも想像できなかったであろう。
だが、サッカーチームがファンタジスタだけでは存続できないように、"楽団というチームに過剰なソリストは必要ない"というのが
太った男の見解であったことと、ジェシカのホットドッグ欲が一日3本から5本へと増えたことによる経済事情が重なった事が
事実としてあったのだ。
これが不幸の始まりであるとヤナーエフは考え、バイオリンケースを持って講堂を出ようとしたその時、重々しく開いたドアからリノリウムに下駄の音を響かせ軽やかにヤナーエフに向かって歩いてくる男がいた。
ヤナーエフと反対の袖をブラブラさせたその小柄な男こそ、ヤナーエフを不幸のどん底から一気に引き上げることになる田中氏なのであった。
(続)