なだそうそう(絵本での曹操の読み仮名)

さて久しぶりにメガネである。
前回から約1年レンズも経過してしまったわけだが、その間はもちろんメガネに対する知識を深めていたわけである。
例えば、メガネと牛ひき肉の関係性(料理的な)であるとか、メガネとプールの切っても切れない関係など。
上に挙げつらねたような事柄をまさしくレンズを熱気でもって曇らせながら研究していたのである。

そこで今回考えていきたいのは、メガネ状態について、である。
メガネをかけた人(以下レンズマン)は通常、「メガネ人」として周りから認識されている。
よく会社などで電話を受けた受付嬢が「田中はメガネと角栄とがおりますが?」と発言するシチューエーション(もしくはイニシエーション)を見かけることがある。
これは「田中が2人以上、または300人以下」存在していた場合、田中というカテゴリーの中においてサブカテゴリーとしてのメガネは非常に便利だということがわかる。
例えばこのメガネ田中さんが"大きなゾウに乗っているメガネをかけたインド人"だとしても、まずは「メガネの」という言葉が先に出るというのは先刻承知の助である。
つまるところ、メガネ=チャームポイント=みんな大好きとして機能しているわけだ。
だが一方の田中さんはメガネをかけていなかった角栄であったばっかりにただの「角栄」とされてしまうわけだからこれをみてもメガネの(後だしジャンケン的な)有利さがおわかりになると思う。

さてそんなメガネだが、メガネ道としては非常に奥が深い。
さらに昨今の伊達メガネ(アメリカではダーティメガネ)には無い難しさがあることもここに付記しておきたい。
その難しさとは、驚異的な普遍性にある。
メガネの人は、まず間違いなく知人が目をつぶってその人を想像した場合「メガネをかけている像」が目に浮かぶ。
例えば「ジャングルで謎の怪物に襲われている田中さんを想像」してももちろんメガネをかけているし、また「僕は海に潜るのが好き」と田中さんが言えば、やはり海中でメガネをかけウットリ遊泳する田中さんを想像するであろう。
実際はそのときにメガネをかけていなくても、第三者の想像の場では確実にメガネ着とされてしまう。
これがいわゆる「シュールメガネリスム」である。
この状態をキープするのは至難の技であり、毎日、知人の目を気にしながらメガネをかけているのである。
いつ何時でも着脱可能な伊達メガネ(ドイツではダンケメガネ)なぞは生易しいと言わんばかりのくっつけ魂なのである。
しかしながら日々の過酷な労働や、ストレスなどにより顔の一部であるメガネにも疲労が出るのは当たり前のこと。
メガネは心を映す鏡とはよく言ったもので、この疲労がピークに達すると某お昼の芸能人のようにレンズは黒ずんでしまい、果ては「髪切った?」と「言ってるねえ、英語なのに日本語にしか聞こえない」しか発言できなくなる恐ろしい事態が待ち受けている。
であるからして、メガネの毎日のケアは非常に大事であるが、その場合、もちろんメガネを外すことになる。
これは「メガネ現場」と呼ばれ、「犯行現場」と同じ意味として使われる。
メガネ人がメガネをかけていないことそれ自体が犯罪なのであるという風潮が広まったのは明治維新(薩長メガネ)のことであるがここでは割愛する。

万全の体制で行われる為、一般の人がメガネ現場に遭遇することはまず無い。
しかしながら、メガネ暦の浅いメガネビギナーなどはちょくちょくその現場に遭遇されて*メガネ流しに遭っており、これからメガネを始めようというものに警鐘を鳴らし続けている。
ここでメガネ暦30年のベテランに話を伺ってみると以下のような答えが返ってきた。

「「板垣死すともメガネはパリ〜ミ〜キ〜」という言葉があると思ってたんだけど勘違いだったみたい(笑)」

これはいかに熟練のメガネストといえども勘違いはあるのだということを如実に表している。
メガネをかけているときは一時の油断もあってはならない、メガネをかけている限り彼らに安息の日々はないのだ。
これを踏まえて、もしあなたがどこかでメガネ初心者らしき者があたふたとメガネを装着する現場を目にしても、そっと通報してあげるにとどめて頂きたい。
それが全世界のメガネッチャーのわずかな願いなのである。