主張する人

ということで更に中学時代の思い出なんですが。


やはりというか多分、同じ年代を過ごした人ならば必ずやったといえるであろう「プロレスごっこ」これは僕の中学時代を彩るにあたて最重要な位置を占めておりました。

全ての休み時間はクラスの新日派、全日派入り乱れてのオープンリーグの開催となります。
しかもプロレス中継のあった翌日は他クラスの生徒までもが入り乱れまるで"レスリングサミット"のような感じでした。
僕の通っていた中学には床から一段上がったところに小さなラウンジみたいなのがあり、そこはカーペットなんか敷かれたりして割と格好のレスリングプレイスでありました。

しかし、カーペットが敷かれているとはいえその下はリノリウムの固い床でしたからブレンバスターやパイルドライバーなどの技は勿論禁止。
且つ、"やっぱしグーとか痛いの嫌だもんね"ということで打撃も無しです。唯一、認められていたのは木戸選手の通称キドゲリ、またはマイティ井上選手の奇声を発しながら大暴れしつつ突進するタックル(はたからみたらただの○○○イ)が"威力が無さそう"ということで解禁でした。

ですが基本はスリーパーやコブラツイストなどの絞め技、そしてアキレス腱固めやワキ固めなどの極め技で試合が進んでいきます。

のどかな昼休み、ラウンジでハアハア息を切らせつつ、静かにグラウンドの攻防をする生徒。
ハッキリ言って不気味でした。
そこには笑いも無く皆が真剣な表情。そして汗だく。
勝負は9割方、サソリ固めか、当たる瞬間に手加減するセーフティ式ウエスタンラリアット(これはかっこいいという理由で有効でした)でピンでした。

しかし今思い返してみると、フィニッシュに至るまでの攻防はまるっきり今でいうところのグラップリングルールでの柔術試合ではなかったろうか?と思うのです。
タックル(柔術式の)は勿論なかったですが、無意識に胴タックルのようなものは使っていました。

もしかしたら僕らは前田光世の後継者として、柔術を知らず知らずのうちにDNAレベルで繰りしていたのでは!さらにはこん中の誰かが前田の子孫かも!
とかひとりで興奮してたんですが、良く考えたらスピニングトーホールドとかハイジャックバックブリーカーなんて技を駆使する柔術どこにもねーよ、とか思い直しました。
決まり手もセーフティ一本足頭突きの時もあったし。
思わず僕の頭にアリと変な踊りみたいなプロレスをやってのけたくせに「バーリーツーズのチャンピオンをやっつけたことだってあるんです!」とか言い放ったアントン"この伊勢丹野郎!"猪木の言葉が(ミッコの声で)渦巻くのでした。


そんなアフタヌーン


(続き)

兄の言い分としては

「新しいスーファミ(NOTズーラシア)のソフトを買った」
    ↓
「テストとか出席とか勉強しろとか親がうるさい」
    ↓
ファミスタでクロマテに打たれムカツイているとこに外でブツクサ言ってる」
    ↓
「キレる」

まるっきり「ムシャクシャしてやった今も反省なんかしてない」っていう感じなんですが、僕にとっては鬼より恐ろしい(夜中の海でクジラと出会うくらいの恐怖指数)兄でしたので大人しく「他のモノを蹴ります」と誓ったわけです。
運良く、というかなんなのか、その後、涙に濡れながら部屋に戻った僕は「プロレススター列伝 スタンハンセン編」を読み、そこに掲載されていた「オレは腕を鍛える為に木に吊るした古タイヤをラリアットし続けたウィー!」という記述をみつけ、「これダ!」と目を輝かせました。

古タイヤであればそんなに音もしないしキックの衝撃も和らげてくれると考えたのでありんす。
そして何よりも、あのS・ハンセン氏が語気荒くのたまっているわけですから「これは効果があるはずだ!無いはずがないウィー!」となるのもお分かり頂けるかと思います。

しかし、古タイヤなぞ落花生が名産の僕の住む町にあるはずも無く、見渡してもあるのは落花生の殻ばかり。
途方にくれた僕でしたがS・ハンセン氏のオリジナルカセットテープに収録されていた「キミモーキット勝テールヨ!(君もきっと勝てるよ@何に?)」というアドヴァイスを思い出しメラメラとガッツを燃え滾らせていると、ふとそこに"自転車"を発見しました。
そうです、自転車といえばタイヤ。タイヤといえば横浜ゴム ということで
"そうかッ!ワイはタイヤという物に拘りすぎていたからグローバルな視野がなかったんや!猿や!ワテは猿になるんや!(ガッツ石松が)”
そんな言葉を叫びつつ、早速、その自転車の後輪に山崎(長州曰く、"山崎はいいやつだからな")選手も真っ青な高速ローキックを連続で叩き込みました。
グラグラ揺れる自転車に思わず、アッチの世界にトリップしてしまい我を忘れてしまったのがいけなかったんです。
バスッ!バスッ!
小気味良く揺れるチャリをアンドレ(the巨人)に見立て、ハアハア言いながら回り込みキックをしつづける僕。ようし、やっぱりアンドレの弱点は足なり!

その時です、まるでドラゴンボンバーズこと藤波選手のドラゴンストップを髣髴とさせる唐突さで物凄い雄たけびがあがりました。
この声はなんとなく聞き覚えがある・・・
戦慄(のクリスマスケーキ)が走りました。

「テメー!オレのチャリキになにしとんぞや!シメっから動くなや!?」

兄でした。

もう恐怖からくる錯乱でワケがわからなくなっていました。
「オッシャー!来いやオラァ!」
叫びながら兄のチャリを突進してくるリーゼント(兄)に向かって投げつけました。
モロにカウンター自転車アタックを食らった兄は卒倒。
そして僕は逃げました。


結局、その日は夜遅くにコッソリ屋根を昇って部屋に戻ったのですが待ち伏せしていた兄に"地獄の暗闇バーリートゥード無制限1本勝負"を仕掛けられ次の日から1週間にわたり学校を休むハメになるのでありました。

その日以来、「ケンカにはキックとかじゃなくて武器が一番だな」そう悟り、僕は更に少数派の「FMW派」を立ち上げることになるのですがそれはまた別のお話。




「人は人の上に人を作らねえんだってよ?」
「まじで!」
「俺らの存在まるで無視じゃん」
「だよな、呪うか」
「呪うべ」
「まずは福沢諭吉とかいうのからやっちまうか」



おはようございます、トーテムポールです。

あの、割と昔の話なんですが中学くらいの頃にプロレスが流行っていた時期がありました。
激しく楽しいプロレスをモットーとした全日(NOT旅客機)派とハイスパートレスリングそしてストロングスタイルを提唱していた新日派、更に少数派として新日を飛び出し格闘技路線を追求しはじめた前田日明率いるUWF派の3派でクラスは対立(主にシリトリで)しておりました。
僕はその中のUWF派(僕1人そしてメタル好き)でありましたが、全日、新日ともに好きだったので割と中立な立場であったわけです。
ですが純粋に"強さ"だけで言えば"前田の顔がわりと怖い"という理由だけで「UWFだろうな」などと思ってました。

そんなドン"中矢"ニールセンとベニユキーデの区別がついていなかった僕ですから"ローキック"に魅了されるのは自然の流れとも言えました。
当時、プロレスでキックといえば相手のみぞおちとかをめがけてトーキック(長州の場合、その際に"コンノヤロー"とか叫ぶ)が普通でしたがUWF勢の格闘技チックな流れるような蹴りはなんとも格好良く、影響されやすかった僕はすぐさま家でキックの練習に励んだのでありました。
まずは家の裏庭にある木柵に(痛くないように)新聞紙を何重にも巻きつけたものを蹴ることから始めました。
蹴っている間は自分が"前田か高田か(はたまた木戸か←キックしない)"になったような妄想を頭の中で全開させつつハアハアいいながらもちょっといい気分だったんですが、さすがに快楽はいつまでも続かないのです。
僕のバッドボーイブラザーこと"実の兄"の部屋がその裏庭に面していましたから、夜な夜な聞こえる「バシッ!シャッ!ハアハア、ベスッ!(NOTペス(犬))来いコラー!」という声に苛立つのも時間の問題だったのであります。

「テメー!うるせえぞや!」
兄からの前田をも凌ぐかとも思われる猛烈なキックを蹴りこまれ、僕自身がボロボロの木柵のようになったのでむなしくもキック練習はそこで終了しました。

(続く)







俺が田上

お前も田上

ぼくもあなたも田上

ワールド・イズ・田上

秩父セメント

セメント田上

セメント樽の中の田上