旅路

花蔵は少し躊躇したかのように見えた。それは「真坂、ワシの話なぞを聞くものがおったとは」というような驚きと、この人は誰だろうという不審の気持ちの表れであるような気がした。

花蔵は着古された絣の着物の懐から、クシャクシャになった一枚の半紙を取り出すと、そこにマジックペンでもってズラーリと何かを書き、私に突き出した。
動揺はもう消えていて、至って惚けたような無表情である。

「其処へヰけば自分が何者か解かると思つたのでありんす。自分探し」

何度も言うようだが、花蔵は横浜生まれである。

「ふむ。だがな花蔵。お前は自分を探す前に入歯を探すのが先決だよ」

私は立ち上がるとその半紙をクシャクシャに丸めて庭へ放った。
カサカサと音を立てて紙くずは何処かへと転がっていって見えなくなった。風の強い日であった。

花蔵はそれきりマサチューセッツに行きたいとは言わなくなったが、今度はイリノイに行きたいと言っている。
入歯は新しいのを買ってやった。

花蔵の頭の中に存在するアメリカの各州にはきっと現実よりも、そして私や妻の八重子が思うよりも素晴らしい何かがあるのだろう。
入歯も必要の無い素晴らしい世界が。



祖父の花蔵が「マサチューセッツにいきたい」と言い出したのはもう5年も前の事になる。
同じ頃、祖父がアルツハイマーを患っていることがわかった。

それからというもの今日まで、日がな一日縁側に座っては「マサチューセッツに行きたいのぉ・・・」(3回に一回はマサチューッスと言うことも)と呟いてはお茶を啜るのが日課になっている。

無論、花蔵は生まれてこの方この横浜を出たことはなかったし、マサチューセッツがどこにあるのかさえも知っているかどうか怪しい。むしろそれより私が驚いたのは、花蔵がアメリカのマサチューセッツ州をそこが"人が赴ける土地"だと認識していることであった。

ある日のこと、花蔵はいつものように縁側で渋くなりすぎた茶を
啜りながらブツブツと呟いていたが、いつにも増してその言葉が聞き取りにくいことに私は気づいた。
「マハヒューヘッフニヒキハイホウゥ」
すわ、ついに完全体へと進化したか。
私は心中そんな言葉を発しながら花蔵の座る縁側に近づいて異変の原因をつきとめた。

どうやら花蔵は入れ歯を失くしたらしい。
しかしそんな事はお構いなしに意味不明の(意味はわかっているが)言葉をぽつねんと呟いていた。

「花蔵よ、なぜマサチューセッツに行きたいのだ」

花蔵の向かいにどっかと腰を下ろして私は尋ねた。
今まで無視してきたが、何故か今日は訊いてみないといけないと思ったのだ。それは呆け始めた祖父に対する思いやりでもなんでもなく、ただ単に興味本位であった。