オードリー・ヘップバーン&佃煮

寝苦しさで目がさめる、なんてことは梅雨に入ったあたりの蒸した夜には当たり前のことだ。

その夜も、粘りつくような空気と喉の渇きを覚えて目を覚ました。
まだ脳味噌の方は覚醒してないとみえて、瞼の裏に残る夢の切れ端を感じながら、ただ天井を見つめていた。
しばらくの間そうしていたろうか、目の端に何かを捉えた。
”もや”のようそれを頭が認識したとき、ある記憶が一気に手繰り寄せられ、全身が総毛立った。

あれはまだ小学校にあがるかあがらないかの頃だったろうか。
盆に入ったばかりの、暑いくせに酷く静かな夜だった。
網戸から入る風もなく、扇風機の羽根が廻る無機質なブーンという音を聞きながら、隣で眠る兄をなんとはなしに眺めていた。
背中をこちらに向けている兄の向こう側にある押入れの引き戸がほんの僅かに開いている。
黒い隙間から、猫の前足がちょこんと揃っているのがみえる。
その頃、飼っていた猫の足だろう、と目を逸らそうとしてぎくりとした。
自分の尻のあたりに猫の温かさと寝息を感じた。
「猫は”確実に”自分の尻の近くで丸まっている、じゃああの前足はどの猫の足なんだ?」
ゆっくりと、引き戸からこちらに前足が踏み出そうとしていた。
引き戸の奥の闇からは禍々しい空気がありありと感じ取れた。
尻を通して、眠っていた猫がピクッと体を震わせ緊張しているのが伝わってきた。
見てはいけない。
ぎゅっと眼を閉じて必死で念仏を唱えているといつの間にか朝になっていた。

朝食の場でその話をすると、父も母も夢でも見たのだろうと取り合わなかったが祖母だけは少しぎょっとしてから、後で部屋に来いというような事を言ったきり、あとは何を聴いてもキュウリの漬物をボリボリと噛むばかりだった。

「それは”きつめ様”だろう」
部屋に入ると祖母はそういった。
「キツネ?」
「いいや、きつめ。」
それはなんなのだ、と質したが”忘れるのがいい、今度またみたら心のなかで「きりゃんきりゃんきりゃんばでるな」と唱え続ければ出てこないから”とだけ言ったきりだった。

その日の夜も蒸し暑い夜だった。
猫は外に出ていて一向に帰ってこない。兄はぐっすり寝ている。
なんども寝返りを打ったり、目をつぶったりしていたがやはり眠れなかった。
床に就く前にきっちりしめた引き戸にどうしても目がいってしまう。
気がつくと眠っていたのかまた目を覚ました。
嫌な感覚がして引き戸へ視線を向ける。
ほんの僅か、開いている。そしてやっぱり足が出ていた。
目を固く閉じ、祖母に教わった文句を唱えようとしたが、頭の中が真っ白で何も浮かんでこない。
「ス、ス」
引き戸が少しずつ開いて行く音が聞こえ、止んだ。
目を閉じたまま念仏を唱えつづけていると気配が消えた。
いなくなった、こわごわ目を開けると、期待にに反してそれは、いた。
薄暗闇の中に女が、いた。
白目がなく碁石のように黒い丸い目には光がない。
おかっぱ頭にひどく白いその顔の下は、毛むくじゃらの猫の体があった。四足で立ったそいつが私に向かって破顔した瞬間に、気を失った。

翌朝、高熱を出して寝ているところへ祖母がきて「もう帰られたから心配するな」と言った。
熱はすぐに下がり、それ以来、夜中に押入れの戸が開くことはなくなったが、祖母はきつめ様については何ひとつ教えてはくれなかった。

だが、あれから数十年たったいま、目の端にきつめ様がいる。
勇気を振り絞り、目だけを動かして視線をモヤに向けた。
わずかに開いた押入れの引き戸から、少しだけ毛布がはみ出ていた。

ではっ